これから結婚をされる方へ

わたしは、母の3回の離婚を見てきたため、結婚したら必ず幸せになりたいという気持ちが人一倍強くて、恋愛してもどんな男性と結婚したら結婚が継続できるのだろうかと、自分の物差しで相手を厳選しているようなところがありました。

なので、なかなか結婚に対して踏み切る勇気がなかったんです。

だけど、実際に結婚して自分の結婚生活や周りのご夫婦の様子を拝見してきて、そうでもないことがわかりました。

ご自身でもどうして結婚したのかわからない、となりゆきでいつの間にか結婚したご夫婦が仲良く結婚生活を楽しんでおられたり、異性として大好きで大好きで大恋愛の末に結婚したのに結婚生活ではうまくいかなかったり。。。

また、親御さんに反対されたから意地になって反発心で結婚したというケースもありますが、結婚するまでの経過が同じでも結婚してみてうまくいく場合とうまくいかない場合もあります。

つまり、わたしが独身の時に思っていた、結婚に向いているとか向いていないとか厳選して相手を選ぶことが大切なのではなく、また結婚するまでの過程が大切なわけでもないということですね。

じゃあ、何の違いでしょうか。

結婚を学ぶ?

結婚を学ぶ、とか、結婚教育といいますと、

「いやいや、今まで結婚なんて誰からも教えてもらったことないけどうちはうまくいってるよ。」というご夫婦もあるでしょう。

「え~お母さんに結婚とはこうだから、とか、教わった通りに結婚相手を選んで、お母さんに言われたとおりにしていたら、うまくいかなかったのよ。」という方もおられるでしょう。

「結婚を教えてもらってないけどうまくいってるよ。」とおっしゃる方は、たとえ学校で習ってなくてもご両親の後ろ姿に結婚生活がうまくいくモデルケースを見ているのではないでしょうか。自然に学べているのですね。

ところが、

「親に教わったとおりに自分もやってみたのにうまくいかないわ。」とおっしゃる方は、うまくいってないモデルケースから結婚をとらえているのかもしれません。

結婚生活にこうすれば絶対うまくいくよ、とか、こうしなきゃならない、とか、こうすべきである、なんていうマニュアルはありません。

でも、いろんなご夫婦、いろんな親子関係から、実際の悩み、ご相談から作られたのが結婚教育です。ご夫婦の数だけ、いえ人間の数だけ結婚教育があると言ったらいいでしょうか。なので、わたしも結婚教育相談員としてまだまだ学んでいる途中です。

結婚に一番大切なのは…

結婚して26年間の中で、いろいろ失敗もありますし、自分のやってしまったことに後悔もあります。でも、結婚したことを後悔したことはないのです。わたしも夫もラッキーだったのは結婚教育に出会えたことです。

しまった!という経験もすべて生きていくうえで自分の底力になっていくのではないかと思うのです。いち女性として、婚活をサポートするものとして様々なご夫婦や婚活中の方にお会いしてきましたが、

結婚に一番大切なのは、

結婚してふたりで幸せな家庭を作っていこうと
寄り添えるかどうか
そして、結婚について学んでいるのかどうか

ではないかと思います。

わたしたち夫婦の共通の想いは、「結婚したら幸せな家庭を作りたい。」「子どもができたら、寂しさを味あわせたくない。」でした。

そのために、日々協力して暮らしています。

これから結婚される方には、だれに決められることのない、ご自身の結婚観をじっくりと考えてみて、幸せな家庭を築いていただきたいと願っています。

 

わたしは大阪市で生まれました。
母は19歳で、福井に疎開していた29歳の父とお見合いをして福井から大阪へ嫁いできました。
のちに聴いた話では父は母に一目惚れだったそうで、ずっと母のことを大好きなのは子どもにもわかるくらいでした。

父は車に乗りませんでしたので、どこに行くにも電車かタクシーでした。タクシーは必ず日本タクシーさんでしたね。車体が真っ赤で私も大好きでした。
よく3人で自転車に乗って出かけたりもしました。
小学校5年までは父と母が喧嘩するところを見たことがありませんでした。

私の結婚観ができあがるまで

夫婦で紳士洋品店を営んでおりましたので、学校から帰るといつも父も母もいるので、よく友だちにいいなあって言われた覚えがあります。
どこに行くのも3人一緒で仲良し。まさか将来両親が離婚するなんて思いもせずに、両親に愛されていた時期でした。

ところが、小学校5年の時に初めて両親の夫婦喧嘩を見てからは、頻繁に喧嘩を見るようになりました。
そして、よく大人の事情も分からず、わたしはいつのまにか泣いている母を励まし、母の相談役になり、母はわたしが中学2年の時に父と離婚して、3年の時に再婚しました。

母の再婚相手である義父が転職のために母の兄を頼って宮崎に引っ越すことになったとき、わたしは高校3年になったばかりのときでした。

母は自分の手元からわたしを手放したくなかったので、わたしは高校を3年の4月に中退することになりました。先生方も友人もみんな、わたしだけ大阪に残って卒業までいることはできないのか、と一生懸命手立てはないのかと言ってくれました。

2年の担任の先生は、あと1年足らずのことだし、ご自分の家に引き取ってそこから高校に通ったらいいとまで考えてくださいました。もちろん、そこまでお世話になることはできませんし、先生は、「すまん、力になれずで、」と深々と頭を下げてくださいました。

学校でもお別れ会をしていただき、仲の良い友人とみんなで動物園に行って、とにかくいっぱい泣いたことを覚えています。

のちに、わたしの父に、どうしてそのときに連絡をくれなかったんだ、と言われましたが、その当時のわたしは、父に連絡することも考えませんでしたし、何より、母と共依存関係でしたから、母が私を宮崎に一緒に連れて行きたいと望むのだから、ということしかなかったのです。

それに、高校を辞めても宮崎で大検を受けて受験勉強をして大学にいけばいいと簡単に考えていたのです。

ところが、宮崎に引っ越して2週間も経った頃、義父と叔父が衝突して、義父は仕事と住居が落ち着いたら必ず迎えに来るからと、自分だけ大阪に帰ってしまいました。大幅にわたしの計画は狂いました。

求人応募

母はパートに出始めました。わたしは1歳にならない妹を散歩に連れ出していましたが、わたしも仕事をする必要があると思いたち、ちょうど募集をしていた会社の経理事務員募集の広告をみて面接にいきました。20人くらいの社員を抱える会社で、面接に行く前のわたしといえば、受かる気満々でした。

面接をしてくださった社長さんがおっしゃいました。

「あなたが何か悪いことをして中退したとかは思いません。とてもまじめな学生さんだったと思います。ただ、うちがいま欲しいのは明日から経理ができる事務員です。あなたは何もできませんよね。申し訳ないけどうちでは雇うことができません。」

と言われて、えっ!わたしはこの会社の事務員にさえなれないの???とびっくりでした。

 

今思えば、その社長のおっしゃることはあたりまえで、自分はなんて世間知らずだったんだと笑えますが、その当時のわたしは井の中の蛙であったことにも気づいてなかったので大変なショックでした。

初めて、わたし、高校やめたことって、ちょっとえらい大変なことをしたかも・・・と思うんですね。

でも悩んでる暇はなくって、とにかく仕事をしないと、とまた求人広告を探します。

スーパーマルハチ

すると、スーパーマルハチというスーパーが事務員募集の広告を出していました。土地勘もないし、スーパーマルハチという名前だけで、ここは身内だけでやってる小さなスーパーにちがいない、ここなら事務員に雇ってもらえるかも、という単なる思い込みで面接を申し込みました。当日現地に行ってびっくり。とっても大きなスーパーで、従業員50人くらいのスーパーでした。

前の会社の面接で学習したわたしは、20人の会社の事務員で落ちたのに、ここもだめだな、とは思いましたが、面接のドタキャンは嫌だったので面接をしてもらったら、ここの社長さんが、もし本気で

事務の仕事をやってみる気持ちがあるならお金の数え方から教えるし、ちょっと落ち着いたら簿記の学校にも通わせてあげるから、といってくださってなんと雇ってもらうことになりました。

社長には二人の息子さんしかいなくて、まるで娘が出来たようにかわいがってくれました。

総菜売り場、野菜売り場、魚売り場、肉売り場・・・すべての担当売り場の社員さんもパートさんも事務所に来てタイムカードを押すたびに何か話しかけてくださったり、お昼ご飯も一緒に食べようと誘ってくださるんですが、男性がタイムカードを押しに来る場合は、社長が、無駄口叩かずに早く仕事に行きなさい、と言って追い出す様子がまるで娘には一切寄せ付けないみたいに思えて、わたしには父親の代わりのような気がしました。

17歳

これは、社長の息子さんが観光案内に連れて行ってくださって撮っていただいた写真で、宮崎の写真ってこれ1枚しかないのです。宮崎にカメラなんて持って行ってなかったですから。

でも、写真はないけれど、尾崎社長とお世話になった社員さんの顔は今でも不思議と思い浮かんで消えることはないのです。

義父が叔父と喧嘩をした関係で、叔父とわたしたちも関係は悪かったのですが、とにかく宮崎のひとが皆さん温かくて、母と妹と女3人で、なんだか幸せな日々を過ごしておりました。

わたしはもちろん仕事しながら受験勉強ははかどりませんでしたが、無事に大検は受かったし、高校の

友人がいつも手紙をくれていたし、母はこのまま宮崎に住んでもいいかも、とまで言い出していました。ところが、義父から大阪に帰ってきてほしい、という連絡があり、この時には母も2回離婚することは避けたいと思っていて、8月に大阪に帰ることとなりました。

申し訳なかったのは本当に短い期間しかいることができなかった、スーパーマルハチの社長とみなさまにです。

でも、社長はわたしに自分の夢をあきらめないように、君なら絶対に実現できるから、とおっしゃってくださいました。

18歳になる手前の4か月間を過ごしただけでしたが、わたしにとって宮崎は特別な土地です。

宮崎から大阪へ

大阪に戻りましたが、義父に大学受験は贅沢だと言われ、家を出て自分でバイトをして通える府立貿易専門学校を見つけて地方から出てきていた友達とルームシェアをして、2年間ベーカリーLONDONNでバイトをして卒業し、製薬会社で念願の貿易に関わる仕事に就職できました。

妹はとっても可愛くて、会社の遠足にも、たまにデートにも連れて行ったりしてました。

会社に2年くらい勤めた頃、母が勤めていたネクタイやさんにお客さんとして来ていた老夫婦から、

自分たちが経営している喫茶店を、使用人がどうも売り上げをごまかしてるようだし、自分たち夫婦も

体力が衰えてきているし、権利で買ってほしいということで話がありました。母は義父と再婚するまでは自分で商売をしていた人だし、借金をしてでも商売をしたかったのです。というか、商売をはじめるときに借金は当然のことくらいに思っている人でしたが、反対する義父と離婚することになりました。

母は喫茶店をしたことがないし、わたしに会社を辞めて喫茶学校に行って一緒に喫茶店をするように頼んできたのでした。

無駄なことは何もない

製薬会社で直接の上司であった課長は、わたしに

「君はそれでいいの?せっかく頑張って好きな会社に入って頑張ってきたのに勿体ない、お母さんに頼まれたからって本当にそれでいいの?」

そう投げかけてくださいました。

でも、そのときのわたしはこの課長はどうしてそんなことを言うんだろう、母が困っているのに助けるのは当然でしょう、親孝行でしょう、そう思っていました。共依存関係に気づいていないって恐ろしいものです。

でもこの喫茶は朝3時から晩は9時までで途中休みなしで営業していた店でした。

夜中に開けてるとマナーの悪いお客様もいましたが、わたしたちになってから、そこは母が初めから

マナーの悪いお客様には出て行ってもらうようにしたので、それでかえってお客様が安心して増えていったのでした。仕事の終わった商売人、朝早い工事のひと、会社員、市役所のひと、高校の先生、タクシーの運転手さん、定時制の高校生・・・

老夫婦さんは従業員を時間帯で別々に5人くらい雇っていたのですが、そのお店を母と私で一日中働きました。

 

喫茶店の一日

ちょっと暇になるのは嵐のようなモーニングが終わる9時からお昼前の11時、お昼の3時から5時の間だけ。その間に買い物に行って、仕込みしてました。

前のシェフは、ピラフとかスパゲッティ、パフェとか出していましたが、母は一切そういうメニューをやめて、焼き飯、オムライス、うどん、焼きそば、卵焼き定食、モーニングもこの当時はまだ珍しかった、トースト+サラダ+ハムエッグというボリュームのある500円セットを考えました。

自分が家で作る、食べたいものを作ったんですね。

メニューは食堂みたいな喫茶店でした(笑)なので、商売人以外の女性客はほとんど来なかったです。

2時半に起きて、晩は10時に寝る。

初めは嫌でした。わたしは何のために貿易の学校に行ったんだろう、どうして喫茶店で仕事をしてるんだろう、なんせ慣れないうちは眠いし、もともと知らない人とあまりしゃべれなかったから(このころはそうだったんです…笑)母に話題を見つけて愛想よくお客さんと話すように言われて、もう泣きたい気持ちがいっぱいで、トイレに入っては泣いてました。でも、とにかく忙しかったからあっというまに一日が終わっていきました。

三回離婚した母を見てきて

わたしは22歳で若かったけど母は42歳だったから、すごい体力だったと思います。

休みなしでしたが、日曜はお昼2時過ぎると暇だったので、日曜だけはお昼の2時で閉店して、2時からが自由な時間で遊びにでかけてましたから、わたしも若かったですね。

この時期に母からいろいろ叩き込まれました。あんなにいやだったのに商売が面白くなっていました。

喫茶店を始めてから4年後、母がもう一軒店を出すことになって、わたしは人を雇ってこの店をやることになり、改めて母はわたしを結婚させる気がないんだなあと思いました。

誰と交際して紹介しても反対するし、わたし自身も結局3回結婚離婚した母を見てきて、結婚する事は簡単かもしれないけれど結婚生活を継続するのはなんてむずかしいんだろう~と思わされ、結婚には慎重を慎重を重ねないとできないわたしになっていました。

母との共依存関係

そして、いままで「ママの娘」として見られていたのが、「ママ」として、従業員を雇うので、いかに若く見られないように、それまでほとんど化粧をしてなかったのに、ファンデーションを塗るようになり、ヘアスタイルもロングの方が年を少しでも上にみてもらえるかと頑張ってるのがこの写真ですね。初めは、母が別の店を開店してからお客様が半分行ってしまうようになり売り上げが減りショックでしたね。

女性の魅力は若さということではないんだということをこのときに知ったのでした。でもわたしが母の真似をできることもないし、母は母、自分は自分のお客様を作っていくしかない、そう思って頑張っていきました。そのうち新しいお客様が増えていきました。このあと、夫と出会います。

たいてい、文ちゃんって、お母さんに振り回された人生だったね、と言われます。全く振り回されてる感はなかったのです。自分も納得してたんだからと答えていたんです。でも今思うに、確かに振り回されていたかもね、と認める気持ちになりました。

ただ、どんな時期もわたしに必要だった経験だったのだと、どの出来事一つとってみても、それがなければ、今の私はなかったのだと確信していることには変わりはありません。

~これから結婚する人へ伝えたいこと~

実は、相談に来られる皆さんのほとんどが、最初にお話しされていた結婚相手の条件とは違う相手と結婚していきます。結局は一緒にいて心地よい相手だったり、雰囲気や空気感が合う相手と結婚されます。

結婚してほんとうによかった!

そう思えるようになるのは結局自分次第です。

わたしは、長い間、母の結婚がうまくいかなかった原因をすべて相手のせいにしていました。なので、わたしも結婚してうまくいくかどうかを相手に求めていました。恋愛をしても、この人は結婚に向いているのだろうか、とか、家庭を大切にする人だろうか、というジャッジをしていたような気がします。

本当にごめんなさい。

相手ではなく、まずは自分の心に向き合うことが大切です。

ご両親が離婚されていようが、不仲であろうと、ご自身が幸せになりたいという軸がぶれることがなければ、必ず幸せになれます。そのことをお伝えしていくことがわたしの使命であると考えています。わたしはたくさんのひとの「おせっかい」によって助けられてきました。今は、わたしの「おせっかい」が誰かのお役に立てることができたらいいなあとおもっています。

 

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