ながはまふみこ幸せ相談所

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私の今までの人生

歩んできた人生で学んだこと

MY STORY

現在の想いに至るまでには、様々な道を歩んでまいりました。人生に無駄なことは一つもなく、今は回り道に見えることもきっとこれからの人生を豊かにする糧となります。ただ、悩んでいる時や苦しい時はそんな余裕はなく、迷路に迷い込んだ感覚に陥っているのではないでしょうか。その迷路の案内人として、ご相談者様一人ひとりの人生に寄り添ったサポートを行っております。


これから結婚する人へ伝えたいこと

MY STORY

私の今までの人生

私は、母の3回の離婚を見てきたため、結婚したら必ず幸せになりたいという気持ちが人一倍強く、恋愛してもどんな男性と結婚したら結婚が継続できるのだろうかと、自分の物差しで相手を厳選しているようなところがありました。そのため、なかなか結婚へと踏み切る勇気がありませんでした。しかし、実際に結婚し、自分の結婚生活や周りのご夫婦の様子を拝見して、そうでもないことがわかりました。
ご自身でもどうして結婚したのかわからない、となりゆきでいつの間にか結婚したご夫婦が仲良く結婚生活を楽しんでおられたり、異性として大好きで大好きで大恋愛の末に結婚したのに、結婚生活ではうまくいかなかったりするケースもありました。また、親御さんに反対されたから意地になり反発心で結婚したというケースもありますが、結婚するまでの経過が同じでも、結婚した後にうまくいく場合とうまくいかない場合もあります。
つまり、私が独身の時に思っていた、結婚に向いているとか、向いていないとか、厳選して相手を選ぶことが大切なのではなく、また結婚するまでの過程が大切なわけでもないということです。では、何の違いでしょうか。

結婚について学ぶとは

結婚教育とは、教えたり育てたりするというより、共に学ぶ、とういう言葉が一番ぴったりくるのではないかと思います。「今まで結婚なんて誰からも教えてもらったことないけど、うちはうまくいってるよ。」というご夫婦もいらっしゃるでしょう。そういった方はご両親の後ろ姿に結婚生活がうまくいくモデルケースを見ているのではないでしょうか。
ところが、「親が言うとおりに自分もやってみたのにうまくいかないわ。」という方もいたっしゃるでしょう。あなたのご両親とあなたとあなたのパートナーは全く違う人間ですから、同じように家庭を築くことなどできません。結婚生活にこうすれば絶対うまくいく、とか、こうしなきゃならない、とか、こうすべきである、などというマニュアルはありません。現場のお悩みやご相談の声から作られたのが結婚教育です。

結婚に一番大切なのは…

結婚してからの30年間の中で、いろいろと失敗もありますし、自分のやってしまったことに後悔もあります。しかし、結婚したことを後悔したことはありません。私も夫もラッキーだったのは、結婚教育に出会えたことです。「しまった!」という経験も、すべては生きていくうえで自分の底力になっていくのではないかと思うのです。ひとりの女性として、婚活をサポートするものとして、様々なご夫婦や婚活中の方にお会いしてきましたが、結婚で一番大切なのは、結婚してふたりで幸せな家庭を作っていこうと寄り添えるかどうかではないかと思います。
私たち夫婦の共通の想いは、「結婚したら幸せな家庭を作りたい。」「子どもができたら、寂しさを味あわせたくない。」でした。そのために、日々、協力して暮らしています。これから結婚される方には、誰に決められることのない、ご自身の結婚観をじっくりと考えてみて、幸せな家庭を築いていただきたいと願っております。

私の結婚観ができあがるまで

両親は夫婦で紳士洋品店を営んでおりましたので、学校から帰るといつも父も母もいるので、よく友だちにいいなあって言われた覚えがあります。どこへ行くのも3人一緒で仲良しで、まさか、将来両親が離婚するなんて思いもせずに、両親に愛されていた時期でした。ところが、私が小学校5年生の時に初めて両親の夫婦喧嘩を見てから、頻繁に喧嘩を見るようになりました。
そして、よく大人の事情も分からず、私はいつのまにか泣いている母を励まし、母の相談役となり、母は私が中学2年生の時に父と離婚して、中学3年生の時に再婚しました。母の再婚相手である義父の転職のため、母の兄を頼って宮崎に引っ越すことになった時、私は高校3年生になったばかりのときでした。母は自分の手元から私を手放したくなかったため、私は高校を3年生の4月に中退することになりました。先生方も友人も、私だけ大阪に残って卒業までいることはできないのか、と一生懸命、手立てはないのかと言ってくれました。
2年生の時の担任の先生は、あと1年足らずのことだし、ご自分の家に引き取って、そこから高校に通ったらいいとまで考えてくださいました。もちろん、そこまでお世話になることはできませんでした、先生は、「すまん、力になれずで、」と深々と頭を下げてくださいました。学校でもお別れ会をしていただき、仲の良い友人とみんなで動物園に行き、とにかくいっぱい泣いたことを覚えています。
後に、私の実父に、「どうしてそのときに連絡をくれなかったのだ。」と言われましたが、その当時の私は、父に連絡することも考えませんでしたし、何より、母と共依存関係でしたので、母が私を宮崎に一緒に連れて行きたいと望むのであれば…ということしかありませんでした。
それに、高校を辞めても宮崎で大検を受け、受験勉強をして大学にいけばいいと簡単に考えていたのです。ところが、宮崎に引っ越して2週間も経った頃、義父と叔父が衝突して、義父は仕事と住居が落ち着いたら必ず迎えに来るからと、自分だけ大阪に帰ってしまい、私の計画も大幅には狂ってしまいました。

求人応募

母はパートに出始めました。私は1歳にならない妹を散歩に連れ出していましたが、私も仕事をする必要があると思い、ちょうど募集をしていた会社の経理事務員募集の広告を見て面接に行きました。20人くらいの社員を抱える会社で面接に行く前の私といえば、受かる気満々でした。
ところが、面接をしてくださった社長さんがおっしゃいました。「あなたが何か悪いことをして中退したとかは思いません。とてもまじめな学生さんだったと思います。ただ、うちが今欲しいのは明日から経理ができる事務員です。あなたは何もできませんよね。申し訳ないけど、うちでは雇うことができません。」
と言われ、「えっ!私はこの会社の事務員にさえなれないの?」とびっくりしてしまいました。今思えば、その社長のおっしゃることはあたりまえのことで、自分はなんと世間知らずだったのだと笑えますが、その当時の私は井の中の蛙であったことにも気づいてなかったので、大変なショックを受けました。そこで初めて、「私、高校やめたことって、ちょっとえらい大変なことをしたかも…」と思うことになりました。しかし、悩んでる暇はなく、とにかく仕事をしないと考え、また求人広告を探します。

スーパーマルハチ

すると、スーパーマルハチというスーパーマーケットが事務員募集の広告を出していました。土地勘もなかったため、スーパーマルハチという名前だけで、ここは身内だけでやってる小さなスーパーに違いない、ここなら事務員に雇ってもらえるかもしれない、という単なる思い込みで面接を申し込みました。当日現地に行ってびっくりしました。とても大きなスーパーで、従業員50人くらいの会社でした。
前の会社の面接で学習した私は、20人の会社の事務員でも落ちたのに、ここもだめだな、とは思ったものの、面接のドタキャンは嫌だったので、面接をしてもらったら、ここの社長さんが、「もし本気で事務の仕事をやってみる気持ちがあるならお金の数え方から教えるし、ちょっと落ち着いたら簿記の学校にも通わせてあげるから。」と言ってくださりなんと雇ってもらうことになりました。
社長には二人の息子さんしかいなくて、まるで娘ができたようだとおっしゃり、かわいがってくださいました。総菜売り場や野菜売り場、魚売り場、肉売り場、すべての担当売り場の社員さんもパートさんも事務所へ来てタイムカードを押すたびに、何か話しかけてくださったり、お昼ご飯も一緒に食べようと誘ってくださるのですが、男性がタイムカードを押しに来る場合は、社長が無駄口叩かずに早く仕事に行きなさい、と言って追い出す様子がまるで娘には一切寄せ付けないみたいに思えて、私には父親の代わりのような気がしました。

17歳

こちらは、社長の息子さんが観光案内に連れて行ってくださって撮っていただいた写真です。宮崎にカメラなんて持って行ってなかったので、宮崎での写真はこれ1枚しかありません。しかし、写真はないけれど、尾崎社長とお世話になった社員の皆さんの顔は今でも不思議と思い浮かんで消えることはありません。
義父が叔父と喧嘩をした関係で、叔父と私たちも折り合いが悪かったのですが、とにかく宮崎の人が皆さん温かくて、母と妹と女3人で、なんだか幸せな日々を過ごしておりました。私はもちろん仕事しながら受験勉強ははかどりませんでしたが、無事に大検は受かり、高校の友人がいつも手紙をくれていたので、母はこのまま宮崎に住んでもいいかも、とまで言い出していました。
ところが、義父から大阪に帰ってきてほしい、という連絡があり、この時には母も2回離婚することは避けたいと思っていたため、8月に大阪に帰ることになりました。申し訳なかったのは本当に短い期間しかいることができなかった、スーパーマルハチの社長と社員の皆さまに対してです。しかし、社長は私に自分の夢をあきらめないように、君なら絶対に実現できるから、とおっしゃってくださいました。18歳になる手前、ほんの4か月間を過ごしただけでしたが、私にとって宮崎は特別な土地です。

宮崎から大阪へ

大阪へ戻りましたが、義父に大学受験は贅沢だと言われたため、家を出て自分でバイトをしながら通える府立貿易専門学校を見つけ、地方から出てきていた友達とルームシェアをして、2年間ベーカリーLONDONNでバイトをして卒業し、製薬会社で念願の貿易に関わる仕事に就職できました。
妹はとっても可愛く、会社の遠足にも、たまにデートにも連れて行ったりしていました。会社に2年くらい勤めた頃、母が勤めていたネクタイ屋さんにお客さんとして来ていた老夫婦から、自分たちが経営している喫茶店の権利で買ってほしいということで話がありました。使用人がどうも売り上げをごまかしてるようだし、自分たち夫婦も体力が衰えてきているので…というお話でした。母は義父と再婚するまでは自分で商売をしていた人なので、借金をしてでも商売をしたかったのです。というよりも、「商売を始めるときに借金は当然のこと。」くらいに思っている人でしたが、反対する義父とは離婚することになりました。
また、母は喫茶店をしたことがないので、私に会社を辞めて喫茶学校に行って一緒に喫茶店をするように頼んできました。

無駄なことは何もない

製薬会社で直接の上司であった課長は、私に「君はそれでいいの?せっかく頑張って好きな会社に入って頑張ってきたのにもったいない、お母さんに頼まれたからって本当にそれでいいの?」そう投げかけてくださいました。しかし、そのときの私はこの課長はどうしてそんなことを言うんだろう、母が困っているのに助けるのは当然でしょう、親孝行でしょう、そう思っていました。共依存関係に気づいていないということは恐ろしいものです。しかし、この喫茶店は朝3時から晩は9時までで途中休みなしで、営業していた店でした。
夜中に開けてるとマナーの悪いお客様が来店することもありましたが、母がマナーの悪いお客様には出て行ってもらうようにしたので、私たちが経営するようになってからは、そのようなお客様はいなくなり、それでかえってお客様が安心して増えていったのでした。仕事の終わった商売人の方、朝早い工事の方、会社員の方、市役所の方、高校の先生、タクシーの運転手さん、定時制の高校生…先代の経営者は、従業員を時間帯で別々に5人知恵戸雇っていましたが、そのお店を母と私の二人だけで一日中働いて回していました。

喫茶店の一日

ちょっと暇になるのは嵐のようなモーニングが終わる9時からお昼前の11時の間、お昼の3時から5時の間だけでした。その間に買い物に行き、仕込みをしていました。以前のシェフは、ピラフやスパゲッティ、パフェなどを出していましたが、母はそういったメニューを一切やめて、焼き飯やオムライス、うどん、焼きそば、卵焼き定食などを出しました。モーニングもこの当時はまだ珍しかった、トースト + サラダ + ハムエッグというボリュームのある500円セットを考えました。
自分が家で作る、食べたいものを作ったようです。メニューは食堂みたいな喫茶店でした(笑)ので、商売人以外の女性客はほとんど来ませんでした。夜中の2時半に起きて、夜の10時に寝る、初めはそんな生活が嫌で、私は何のために貿易の学校に行ったんだろう、どうして喫茶店で仕事をしてるんだろう、なにしろ慣れないうちは眠いし、元々、知らない人とあまりしゃべれなかったから(この頃はそうだったんです…笑)母に話題を見つけて愛想よくお客さんと話すように言われて、もう泣きたい気持ちがいっぱいで、トイレに入っては泣いてました。しかし、とにかく忙しかったからあっというまに一日が終わっていきました。

三回離婚した母を見てきて

私は22歳で若かったけれど、母は42歳だったから、すごい体力だったと思います。休みなしでしたが、日曜はお昼2時過ぎると暇だったので、日曜だけはお昼の2時で閉店して、2時からが自由な時間で遊びにでかけていましたから、私も若かったのだと思います。この時期に母からいろいろと叩き込まれました。あんなにいやだったのに、気づけば商売が面白くなっていました。
喫茶店を始めてから4年後、母がもう一軒店を出すことになり、私は人を雇ってこの店をやることになり、改めて母は私を結婚させる気がないのだなあと思いました。誰と交際して紹介しても反対するし、私自身も結局3回も結婚と離婚を繰り返した母を見てきて、結婚することは簡単かもしれないけれど、結婚生活を継続するのことは難しいのだろう。と思わされ、結婚には慎重を慎重を重ねないとできない私になっていました。

母との共依存関係

そして、今まで「ママの娘」として見られていたのが、「ママ」として、従業員を雇うので、いかに若く見られないよう、それまでほとんど化粧をしていなかったのに、ファンデーションを塗るようになり、ヘアスタイルもロングの方が少しでも年を上にみてもらえるかと頑張ってるのが、この写真です。はじめは、母が別の店を開店してからお客様が半分行ってしまうようになり、売り上げが減りショックを受けました。
女性の魅力は若さということではないのだ。ということをこの時に知りました。しかし、私には母の真似をできることもないし、母は母、自分は自分のお客様を作っていくしかない、そう思って頑張っていきました。そのうち新しいお客様が増えていきました。この後、夫と出会います。
たいてい、「文ちゃんって、お母さんに振り回された人生だったね。」と言われますが、全く振り回されてると感じてはいなかったのです。自分も納得してたんだからと答えていました。しかし、今から思うと確かに振り回されていたのかもしれない。と認める気持ちになりました。ただ、どんな時期も私には必要だった経験だったのだと、どの出来事一つとってみても、それがなければ、今の私はなかったのだと確信していることには変わりはありません。

これから結婚する人へ伝えたいこと

実は、相談にいらっしゃる皆さんのほとんどが、最初にお話しをされていた結婚相手の条件とは違う相手と結婚していきます。結局は一緒にいて心地よい相手や雰囲気や空気感が合う相手と結婚されています。
結婚してほんとうによかった。そう思えるようになるのは結局のところ自分次第です。私は、長い間、母の結婚がうまくいかなかった原因をすべて相手のせいにしていました。そのため、私も結婚してうまくいくかどうかを相手に求めていました。恋愛をしてもこの人は結婚に向いているのだろうかとか、家庭を大切にする人だろうかとか、そういったジャッジをしていたような気がします。本当に申し訳なく思います。
大切なのは相手ではなく、まずは自分の心に向き合うことです。ご両親が離婚されていようが、不仲であろうが、ご自身が幸せになりたいという軸がぶれなければ、必ず幸せになれます。そのことをお伝えしていくことが私の使命であると考えています。私はたくさんのひとの「おせっかい」によって助けられてきました。今は、私の「おせっかい」が誰かのお役に立てることができたらいいなあと思っております。

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